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テレビで生中継された重大事件簿
「東大安田講堂事件」



ここでは、昭和40年代を象徴する「大学紛争」の中でも、633人もの逮捕者を出した「東大安田講堂事件」についてご紹介します。

時代背景

時代背景

東大安田講堂事件(東大紛争)は1969年1月18日から同19日かけて東京大学で起きた学生紛争です。1969年は、ベトナム戦争への反戦デモや第二次安保闘争などが繰り広げられていた年で、「新左翼」と呼ばれる過激な革命思想団体が跳梁跋扈した時代でした。このような社会風潮の中、当時の大学は閉鎖された社会であり権威主義のような古い体質が色濃く残っていました。これに対し、多くの学生の不満が爆発、当時の社会風潮とあいまって全共闘と呼ばれる学生団体が結成され、大学闘争が起きました。

GHQが作った制度に反対

東大紛争は、1968年に医学部学生による「インターン制度」への反発が発端です。インターン制度は、戦後GHQ(総司令部を意味するGeneral Headquartersの略)によって制定された制度で、研修医として無給で1年間働かなければ国家資格である医師資格試験を受験できないという制度でした。これに対し医学部学生は、自主カリキュラムを作り自主研修協約を東大医学部附属病院に提出しましたが、大学側がこれを拒否。そこで医学部学生自治会は1968年1月、無期限ストライキを決行しました。ストライキに参加した学生は約900人にも上り、卒業試験や卒業式をボイコットするなどしました。大学側もまた譲歩姿勢を崩さず、終結する翌年1月19日まで続く、長い大学封鎖の事態を招きました。

全学闘争に発展

医学部のストライキは新年度になっても続き、学年ごとの代表者からなる「医学部全学闘争委員会」は69年6月15日、要求を無視する大学当局に対し、東大の本部がありシンボルでもある安田講堂を占拠し立てこもりを始めました。東大総長の大河内一男は同17日、機動隊に出動を要請、学生を排除しました。しかし、当時の社会風潮において「機動隊」は安保闘争で東大生1人が死亡した宿敵で、これが火に油を注ぐこととなり、法・理・薬学部を除く7学部が全学無期限ストという事態に発展、東大全学共闘会議(東大全共闘)が結成され、7月の決起集会には約3,000人が参加するという大規模な大学闘争に発展しました。

さらに、学生らの中でも考え方の違いから、主導権をめぐる争いも目立つようになり、大学側は管理能力を失い、学生主導のストライキや主要な建物のバリケード封鎖が行なわれ、11月には大河内総長はじめ全学部長が辞任する事態へと発展していきました。このころには、東大学生以外の新左翼系の学生らが全国から終結しており、全国民の耳目が東大に集まるようになっていました。

機動隊の突入で収束へ

その後もストライキは続き、法学部長の加藤一朗総長代行は69年1月9日、秩父宮ラグビー場で「7学部集会」を開催。学生7,500人、教職員1,500人が終結し、機動隊5,000人が警備をする中、討論を重ね、学生側の10項目の要求をのむ形で紛争収束に合意しました。しかし、安田講堂を占拠していた全共闘のメンバーたちはすでに決戦態勢に入っており、石や鉄パイプなどで武装し籠城を続行、東京大学は警視庁に封鎖解除を申請し、機動隊が再度安田講堂に送り込まれました。1月18日、機動隊はバリケードの撤去を開始し、これを合図に全共闘は投石や火炎瓶などで攻撃を始めました。機動隊は催涙弾などで応戦し、この模様は35時間にわたってテレビで中継され、視聴率が45%を超えるなど日本全国の関心を集めました。2日間にわたって攻防が繰り広げられましたが、1月19日、多数の負傷者と逮捕者を出しながらも、機動隊が安田講堂に突入、全共闘のメンバー全員を逮捕し、東大紛争は終結しました。

警察の発表では、検挙者633人中、東大生はわずか38人だったといいます。これは、当時の権力に不満を抱えていた学生の多さと東大紛争の影響がいかに大きかったかを表していると言えます。また、事件の影響により、69年の入試は中止となり、次年度の入学者が0人という事態となりました。